いわゆる所得などの格差拡大、階層固定化などが問題視され、議論になっているが、それらを肯定・支持する人たちがいる。さらに、ただ支持・肯定するだけでなく、いわゆる「負け組」や「ワーキング・プア」の人たちや、格差社会化を批判的にとりあげる人たちを見ると、「それは本人の自己責任だ」などと説教を垂れたりする。
いわゆる本物の「勝ち組」「エリート」の人や、元からそのような考えだった人もいるかもしれないが、おそらくはそのような人たちの多くは、客観的に見ればいわゆる「負け組」、少なくとも「勝ち組」には属さない人たちではないか。にもかかわらず、その事実を受け入れられない、認めたくない。そのために、「負け組」を叩くことによって、「自分も“勝ち組”のつもり」か、あるいは「自分は“負け組”ではない」と思いたいのではないか。
そのような人たちを、私は「疑似勝ち組」、あるいは「つもり勝ち組」と呼んでいる。
「疑似勝ち組」は、普通の「負け組」の人たちよりも、実は惨めで哀しい人たちである。
今月10日夜、NHKで『ワーキング・プアⅡ』という番組があった。
それは、いわゆる「ワーキング・プア」と呼ばれる、一生懸命に働いているのに豊かになれないどころか、満足に生活するだけの収入も、上昇できるチャンスにも恵まれない人たちについて報道した番組である。
二人の子持ちの母子家庭で掛け持ちで仕事をしている30代の女性。80歳と75歳の年金をもらっていない缶拾いの老夫婦。さらに、高校時代は優秀な成績だったにも関わらず、親の失職・病気で進学できず、安月給で働かざるをえない20代の女性など。
番組でとりあげた人たちはいずれも、必ずしも自分の落ち度でチャンスにも恵まれない貧しい生活を余儀なくされている、というわけではない。番組の内容は、このように必死で努力しているにもかかわらず、豊かになれるどころか、まともに生活していくのも難しいという人々の姿を通して、今の社会のあり方を問うているものだ。
だが……。
なんと、この『ワーキング・プアⅡ』の放送後、番組に対する抗議の電話が多数寄せられていたという。その内容は「貧乏なのは自己責任なのだから、こんな番組を放送するな」という類のものだとか
(注1) 。
そういう抗議をする人たちや、あるいはこの問題を扱ったブログのコメント欄に「貧乏人が必死だなw」などというコメントを入れる人たちとは、果たしてどういう人たちなのだろうか? いわゆる弱者や負け組、その問題について語ろうとする人たちに、「自己責任」論を振りかざして、説教を垂れる人たちというのは、どういう人たちだろうか?
本当の「勝ち組」や、元から市場原理主義を信奉していた人もいるかもしれない。だがそのような人たちは、おそらくは全体のごく一部ではないだろうか? 真に自由主義を信奉する公正な人なら、あのように一生懸命に働いても豊かになれない人たちに嘲笑を浴びせたり、それを取り上げた番組に目くじらを立てるようなことは、あるのだろうか。本当の「勝ち組」や「エリート」の人が、NHK番組に電話抗議したり、一般人のブログのコメント欄でしょうもない嫌がらせをするとは、普通思えない
(注2) 。
今の日本社会で、いわゆる「エリート」や「勝ち組」の人がたくさんいる、自己責任だけで頑張って高収入を得られているような人たちが多数派ならば、まことに結構な話である。だが、現実はそうではない。
世論調査・誘導のために、政権やその支持勢力が放ったプロ活動家や工作員、彼らに扇動・動員された人たちである可能性も考えられる。しかしそれについては、確証及び、確証を得る術が今のところこちらにはないので、ここでは言及しない。
となると、NHK番組『ワーキングプアⅡ』に抗議電話をかけた人たちの多くは……やはり、社会の大多数を占める、いわゆる「負け組」の人たちではないか。あるいは「負け組予備軍」……今はまだ「負け組」というほどではなくても、いつか、何かのきっかけで「負け組」に転落するかもしれないという人たち、そのような不安を大なり小なり抱えている人たちであると考えられる。本当に「勝ち組」「エリート」と言える人たちは少数。「自分だけは絶対大丈夫」といえる人たちは、よほどの自信家か、楽観主義者か、あるいは社会の現実を知らない鈍感な人かのいずれかだろうから。
それにしても何故、いわゆる「負け組」や、少なくとも「エリート」や「勝ち組」でもない人たちが、「自己責任」を振りかざして、社会的弱者や「負け組」に人たちに説教を垂れるようなことをするのか? はっきり言って、彼らが「自己責任」論を振りかざして、それを広めるほど、彼ら自身が不利な立場に追い込まれ、より不利益を被ることになってしまう。現実にメリットを受けることは、あまり考えられない。特に、新自由主義(=市場原理主義)の路線が社会のあらゆる分野で推し進められている、現在の社会状況においては。金も、コネも、地位も、他人よりずば抜けた特別な才能も……つまり、社会の中以下から上にのし上がるための手段を持っていない人たち
(注3) に対しても、決して機会が平等に与えられているとも思えない。
なのに、何故?
それは結局、自分が「負け組」あるいは、「負け組予備軍」であるという事実を認めたくない、そのような現実を直視したくないからだ、と私は考える。それを認めると、自分があまりにも惨めで辛くなるから。その事実に耐えられない。 特に(騙され、煽られたとはいえ)、一度でも「自己責任」論や「市場原理主義」論を支持する側にくみした場合はなおさらだ
(注4) 。
さらに言えば、「自己責任」を唱えている当の本人たちが、本当に自分の収入や社会的な地位を確保する、あるいは上げるための努力をしている、あるいはできているのだろうか? 少なくとも、ほぼ一日中ネットにかじりついて、他人のブログにしょうもない書き込みをやっているような人たちが、そのような努力をしているとは、私には思えないのだが(苦笑)。
そもそも「自己責任だ」「自助努力をしろ」とか言われても、具体的に何をすればいいのかわからない、という人も多いのではないだろうか?
「頑張れ」「努力しろ」「精進しろ」などとか言われても、本当に追い詰められている人たちなどは、日々の生活と目先のことに精一杯である。高度な技能や資格などを得るための勉強にまでなかなか手が回らないという現実もあるのではないか? やる気はあっても、資格や技能を得るための勉強にも金がかかる。企業もまともに人材育成をしない・できないという現状では、十分な収入を得られていない人には、勉強する機会も与えられないことになる。
さらに、頑張って何か結果を出したとしても、それが必ずしも報われるとは限らない。何故なら、労働者のクビを切る側の人間は、労働者が本当に無能だから切るわけではないからだ。そうやって人件費を削ることが、最も手っ取り早く利益を増やす方法だからだ。例えば、冒頭で取り上げたNHK番組『ワーキングプアⅡ』に登場した20代女性の場合、頑張って資格を取ったにもかかわらず、ほんのわずかしか収入が上がらず、生活は苦しいままだという。
本人の努力は確かに大事であるが、なかなか状況を改善できない、それだけではどうしても限界がある。そんな現実がある。
結局、自分たちをこのような苦境や不安に追いやっている社会状況にも目を向けなければならなくなる。だが、必ずしもそうはならない。 それにはまず、「自分が社会において、どういう位置・立場にあるか」を認識し、そして問題の原因を生み出しているもの(者)の正体を見極め、それに怒り、抗議の意を示すことから始まる。だが、それができない。 社会状況に目を向け、怒りや抗議の意を示す時、多くの場合それは、特定の組織(政党、企業、行政機関など)や人物(政治家や経営者、役人など)などへの批判の形をもって、それは表れる。ほとんどの場合、抗議を受ける側は、抗議をする側よりも圧倒的に強者である。
強者でもない人が、自分より社会的に強い立場の相手に対して、適切に抗議する(あるいは自分の意志を示す)場合、まずは勇気というか、その元になる自信や自己肯定感等がなければ、なかなかできない。それがない、持てない。それらの前提となる過去の成功体験、何かを成就したという経験も、まともに自己肯定できるような記憶も経験もないから。
そんなわけで、結局はどんなに不満であっても、それが理不尽ではないかとどこかで思いつつも、自分の不利益や惨めな境遇を受け入れざるをえない。受け入れざるをえない、と結論づけてしまう。 しかし本人の辛さや惨めさ、やり場のない怒りなどは解消されないままである。それは、問題の根本的原因に向けられることはない。蓄積され、適当に発散できる対象を見つけた時に爆発する。 発散の対象となるのは、どういった人たちか? そのための条件は、2つあると私は考える。
圧倒的に強い者(権力を持っている人など)や、報復が恐ろしい相手(ヤクザなど)ではない。まずは自分より弱い者、あるいは自分が報復されてダメージを受ける心配がない相手が、選ばれる
(注5) 。
もうひとつの条件。それは、辛さや惨めさ、怒りなどをため込んだ本人に、怒りや不安、苛立ちなどを与えてしまう人である。どういう時に、最もそれらを感じるか。自分自身の弱さや惨めさなどを思い起こさせてしまうような人である。
この2条件を満たす人たちがいる。それは、以下にあげるような人たちだ。 (1):本人と同じか境遇や、さらに弱い立場にある人 (2):(1)に加えて、そこから這い上がろうと頑張る人 (3):(1)(2)に加え、そこから成功や幸福を手にした人 (4):さらに問題の根本的解決のため、頑張っている人 おわかりだろうか?
(1)のタイプを見ると、辛さや惨めさを蓄積した人は、耐えられなくなる。自分の中の嫌な、認めたくないものを見せつけられてしまうからだ。相手に対し、自分と同じか、それ以上の傷を負わせたくなる欲求・衝動に駆られてしまう。
(2)、(3)のタイプを見ると、問題解決のために何もできない(しない)自分というのが、より惨めになってくる。
(4)のタイプにいたっては、むかついてくるというか、腹が立ってくる、許せないという感情すら抱くのではないか。「自分がこの状況・境遇を甘んじて受け入れているというのに、それに文句を言うあいつは何だ!? なんという我が儘な、生意気な!」というわけか。
以上のようなわけだから、同じ「負け組」や「ワーキング・プア」の人たち、及び格差社会の拡大と固定化を批判する人たちは、彼らが憎しみをぶつける対象となってしまうのだろう。 ネットで他人に冷笑・嘲笑を浴びせる言葉のひとつに「必死だなw」というのがある。自分自身は何かに必死になった経験がないのだろうか? そうやって他人を嗤う人たちは、おそらく他人の足を引っ張るばかりだ。「自己責任」で「自助努力」をしているようには思えないが。
しかし「自己責任」などという言葉は、苛烈な市場原理主義が横行する現在の世相において、自分のストレスを他人にぶつけるための方便としては、実に便利で使いやすいものなのだろう。「その言葉の本来の意味や前提条件」とか、「その言葉を安易に用いることが、自分と社会にとってどのような意味を持つか」とか、「それが自分にどのように返ってくるか」とか、「そもそも自分は、えらそうに他人に説教できる資格を持った人間なのか?」などの問題は、使っている本人には関係ない。 問題なのは、そんなことを繰り返していても、一時的な憂さ晴らしにはなるかもしれないが、決して問題の根本的な解決にはならないことだろう。他人の足を引っ張ることはあっても、何かを生み出したり、社会に貢献できたりすることはまずない。問題の根本的原因に向き合っていないのだから、当然なのだが。 それどころか、自分を追い詰めている社会の矛盾をより深刻化させる方向に働く。結局は、他人どころか自分をさらに追い詰めていくばかりだ。 自分は決して「勝ち組」ではないのに、弱者や「負け組」を叩くことによって、憂さを晴らすしかない。そうすることによって、「自分は勝ち組」と思いたい。そうまではいかなくても「少なくとも自分は弱者や負け組とは違うのだ」と思いたい。客観的に見れば、結局は本人自身の首を絞めているだけなのに、それを理解できない。どこかでわかっていても、それを認めることに耐えられない……。
私はそのような人たちを
「疑似勝ち組」 、もしくは
「つもり勝ち組」 と呼んでいる。
ただの「負け組」なら、自覚があるからまだ救いがある。
だが、「疑似勝ち組」は、「負け組」よりも救いがない。自分と社会を追い詰めるだけだという意味でも、「負け組」よりもさらに惨めで、哀しい人たちだ。
以前にも言った
(注6) が、結局はどんな惨めで辛くても、自分自身が「弱者」「負け組」、あるいはその予備軍であるという現実を認識して、そこから出発する。
社会の矛盾や理不尽の犠牲となった人たちに対しても、想像力をめぐらせ、「それが自分にとって、どういう意味を持つのか?」を考える。
その上で考える。問題を打開するために何をすべきか? 自分に何ができるか? 個人レベルでも、社会全体のレベルでも考えていく。
そうしてはじめて、問題の根本的解決も、救いの道も開けてくる。
くどいようだが、何度でも言わせてもらいたい。
(注1): その詳細は、以下の記事をご覧いただけるといいだろう。
・安倍内閣がプアなばかりに・・・ (2006.12.12 17:21)
http://rankeyblog.blog68.fc2.com/blog-entry-392.html ・「ワーキングプアⅡ」(3)…クレームを言ふお方のメンタリティー (2006/12/13 13:08)
http://dr-stonefly.at.webry.info/200612/article_9.html ・「ワーキングプア」に抗議殺到???ーーー分割統治されてはいけない!(2006/12/14 1:42
)
http://blogs.yahoo.co.jp/hiroseto2004/43228591.html (注2): おそらく、権力や財力を持った本当の「エリート」「勝ち組」などは、このようなやり方よりもより効果的に圧力をかける手段を持っているだろう。いわゆる従軍慰安婦問題を扱った番組の内容を一部変更させるように圧力かけたという、どこかの誰かさんみたいに……。
(注3): というか、いつの世でもそういう人たちの方が、世の圧倒的多数を占めているものだろう。もちろん、そういう私自身も、世の圧倒的多数を占める凡人の一人であるが(笑)。
努力や才能によって格差が付くことを、全く否定するわけではない。しかし、凡人が世の多数を占める以上は、せめて「凡人でも真面目に頑張れば、まともに生活していける」ようにしておかないと、国家や社会の安定もないと、私は思うのだが。
(注4): その話題については、以前も幣サイトでとりあげたことがある。
以下が、その記事である。
・負け組の格差社会容認と『裸の王様』(過去ログ)
http://komichin.blog80.fc2.com/blog-entry-17.html (注5): もっとも、ネットの普及が、その条件を緩和したのかもしれない。匿名性というネットの持つ特徴が、「自分は何をしても、匿名だからバレないし、責任を追及されることもない」という恐るべき勘違いをした輩を、大量に生み出してしまった。そのため、右翼団体などにも、ネットで攻撃を加える想像力ゼロのバカどもも表れたようだが、この話題について詳細は、本題からそれるので、別の機会に述べる。
しかし、それで自分の正体がバレて報復を受けたら、そういったネット屑どもが好んで使う理屈「自業自得」や「自己責任」を、彼らは自信に当てはめるのだろうか?(苦笑)
(注6): 以下の記事を参照。
「若年層小泉支持」の背後にある新自由主義への幻想(5)
http://komichin.blog80.fc2.com/blog-entry-13.html
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テーマ:格差社会
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