「自己責任」。
弊サイトでも何度かとりあげたことのあるこの言葉・概念ですが、私はこの言葉が嫌いです。
この言葉をみだりに使う人たちに対しても、懐疑的になってしまうのです。
何故か?
それは、巷で喧伝されている「自己責任」論というものが、本来の意味や用法とはかけ離れた、特定の人たちにのみ都合のいいように歪められたものであるからです。
もっと言えば、本来、責任を負うべき立場の強者が、立場の弱い弱者に責任転嫁するための方便に成り下がってしまっているからなのです。
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さて、本題の前に挨拶代わりに近況報告を。
これは、更新やレス返し等ができなかったことも言い訳もかねておりますが。
先月の給与明細を見たところ……なんと、月の労働時間が300時間を越えていました。
「最近、なんか忙しいなあ」とか「あまりゆっくりしていられる時間もないなあ」とか思っていたら、これほどだったとは(苦笑)。
これは、夜勤や残業、休日出勤等も含めた総労働時間です。
「私みたいな入社したてのペーペーでもこれほど仕事しなければならないのは一体……!?」などという気もしました(苦笑)。
でも前の勤め先とは違って、週に1~2回休日はもらえますし、残業代等はそれなりにきちんともらっているので、いいんですが(私も自分の身のほどは心得ているつもりなので、給料や労働条件等には、あまり高望みはしません。ただし「これはどう考えても不条理だ」と思ったことに対しては、遠慮なく批判させてもらいます)。
しかしそれでも、マイペースででも更新を頑張っていただきたいと思います。
ここから本題です。
前回記事
『中川昭一の酒癖より問題なマスゴミの癒着・鈍感・退廃』へいくつかコメントをいただきました。
その中に、田中さんという方から以下のようなコメントをいただきました。
田中隆弘
よくよく考えれば、
糾弾されている政治家・マスメディア・役人というのは国民が背負う責任だったりします。
つまり、三者だけを悪者にして、その三者を構成し・支持している国民の罪は問われていないと批判する必要性もあるでしょう。
つまり、批判するだけ批判して、国民の自己責任を論じないのが問題ということです。
冷静に考えればわかるように、三者とも国民の裏打ちがあるものです。
・政治家は国民の投票による信託
・役人は国民であり
・マスメディアは国民の支持(消費)の前提で存在する
と三者に対する包括的責任が国民にあるのは明白です。
同時に、政治家すべて・マスメディアすべて・役人すべてが批判されるべきとは言い切れません。
ただし、国民はその全体に責任を規定することができます。
それは日本国憲法の前文規定にあるように
・・・そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する・・・
とあるように、国民にこそ責任があるわけです。
それから逃避しているようでは、政治家もマスメディアも役人にも主権者としての責任を示せません。
この部類の主張には、国民が選択した自己決定権に対する逃避(責任転嫁・責任逃れ)は指摘できます。それを否定できるでしょうか?
持論としては理解できますが、あまりにもステレオタイプで無責任な感想・意見であることは、衆愚の象徴性であり、人類の参政権獲得の歴史・政治的責任意識という意味で、問題が大きいでしょう。
ただし、自己責任を内包しえるならば、その批判の限りではありません。
2009/03/04 Wed 15:21 URL [ Edit ]
結論から言えば、「国民の責任」というものも全く考えていなかったわけではありません。
田中さんご指摘のような側面があるのも否めません。
例えば、あの2005年の小泉郵政選挙(近年希に見る衆愚政治!)と、その後の日本の国民生活と受けた深刻なダメージを見れば、「有権者自身の責任」というものも、いやでも考えざるを得ません。
私自身も「エリートでも聖人君子でもない、ただの弱い大衆の一人に過ぎない」ということを考えれば、この種の大衆批判はあまりやりたくない、というのが正直なところですが。
しかし、やはりどうしてもこの問題にも触れざるをえません。
また、郵政選挙などで現れた有権者の無責任などは「人類の参政権獲得の歴史」に対する冒涜であり、それはそれで批判されるべきものでしょう。
ただ、
前回記事であえてこの問題にまで言及しなかったのは、まず紙幅の都合と、「政界とマスゴミとの癒着・堕落、それによる国益の損失と税金無駄遣い」というテーマにのみ絞って論を進めたかったからです。
その上さらに「国民の自己責任」というテーマを加えて、文章全体をうまくまとめるだけの構成能力が、私にはありませんでした。
その結果、「ステレオタイプな批判」になってしまったことも否めませんが……そういうご批判は甘んじて受けるとして、「国民大衆の責任」についての論は、また別の機会にさせていただきたいと思います。
このように、「国民大衆の自己責任」という側面も否定はできない。
そのことも全くわからないわけではありません。
ただ……。
それでもなお、
「自己責任」という言葉が、私は嫌いなのです。
やたらと「自己責任」を口にする人たちに対して、懐疑的にならざるをえないのです。 弊サイトの以前からの読者さんなら、お気づきかもしれませんが。
何故か?
それは、巷で喧伝されている「自己責任」論というものが、本来の意味や用法とはかけ離れた、特定の人たちにのみ都合のいいように歪められたものであるからです。
もっと言えば、本来、責任を負うべき立場の強者が、立場の弱い弱者に責任転嫁するための方便に成り下がってしまっているからなのです。 そもそもこの日本社会において、「自己責任」などという言葉・概念とはどのようなものだったのでしょうか。
また、どのような場所で、どのような人たちに、どのような場合に使われていたのでしょうか。
少なくとも1980年代までの日本社会では、
現在のようにあらゆる分野で「自己責任」で使われていたわけではありませんでした。 それも当然でしょう。元々は金融とか株式市場とかの分野でのみ使われていたそうですから。
元々日本では、株式投資などよりも貯蓄などで資産を守ることの方が普通だったのですから。米英などのように、一般の人たちにも株などの資産運用をするのが当たり前のような風潮が広まったのは、それほど昔のことではありませんから。
さらに、忘れてはならないことがあります。
それには「情報公開」という前提条件……言い換えれば、「一般人にも必要な情報が全て正しく知らされていること」が前提条件でなければならかったのです。
要するに本来「自己責任」とは、限られた場所で、特定の条件が前提になって、はじめて認められる言葉・概念であったのです。 考えてみれば、それも当然のことでしょう。
市場の情報を全て独占できる特殊な立場にあるのならともかく、全ての参加者がそうではありません。投資や金融のプロならともかく……いや、プロでさえ失敗して大損をし、時には破滅する場合もあるのです。ましてや他に仕事や学業を持ち、その片手間にやっているような一般の素人が、そのような場所で自分の財産を運用しようなどというのは自殺行為に等しいでしょう。
詐欺などの不正な手を使って、他人を食い物にしても、自分だけ得をしようなどという不届き者も、中にはいます。
だからこそ、「情報公開」というのが前提になければならないのです。そうでなければ、「詐欺でも、ルール違反でも何でもあり。どんな卑怯な手でも、儲けた者勝ち」などという無法地帯になってしまいます。やがてまともな参加者は嫌になって去ったり、食い潰されたりしていなくなり、その市場はまともに機能も成立もしなくなってしまいます。
近年は、多くの分野でやたらと「自己責任」という言葉が使われているようです。
金融や株式市場などの特定分野だけの話に限らず、あらゆるところで、何かといえば「自己責任」という言葉を使う人たちが多いようです。
しかしちょっと考えても見てください。
我々は、何でもかんでも一人で「自己責任」でできてしまうような強い人間ばかりでしょうか?
真偽を問わず無数の情報があふれる現代社会において、正しい情報を取捨選択・分析できて、常に正しい判断が下せるようなスーパーマンが、一体どれだけ居るのでしょうか?
そのような人はまず居ない。居たとしても、ごく少数でしょう。
だからこそ、
「正しい情報公開」というのが前提になければならないのですが、最近はそれすらも守られているかどうか、ちょっと怪しいといわざるを得ません。 2001年の
エンロン破綻騒動に見られるように、嘘や不正を重ねて、多くの人々を騙して損害を与え、自分たちだけ肥え太ったような人たちがいます。
しかも企業の経営陣だけでなく、会計事務所など本来公正であるべき立場の人たちまでが不正に加担していたことも明らかになっています。
さらに、当時の政権にもエンロンと浅からぬ関係を持つ人たちが何人もいたそうです。
日本でも似たような話をいくつも聞きます。
しかも、問題の企業や経営者をマスメディアが無批判かつ無責任に持ち上げていたこともしばしば。
悪徳経済人に、政治家やマスゴミまでがグルになって詐欺行為に手を貸すかのようなことをする。
それで多くの人たちが被害や損害を受けて、社会的にもマイナスの影響が出たにも関わらず、関わった政治家やマスコミ人もその責任を総括・反省もせず……再び同じような誤りを繰り返して、その度にまた多くの人たちが損害を被る。
そんな状況で、果たして正しい情報を手に入れ、適切な判断ができるでしょうか?
結局、「自己責任」ってのは一体なんだろう?
そんな疑問が出てきます。
一般の国民大衆に「自己責任」を問うならば、
(1)果たしてその判断材料たる情報が与えられているのか?
(2)選択の余地が与えられているかどうか?
(3)形式上は判断や選択の余地は与えられていたとしても、特定の選択肢以外を選びにくい雰囲気が作られていないかどうか?
なども考えてみてはどうか、と思うのですが。 特に日本の場合、(3)のケースが多いような気がするのです。政界や財界、官界、そしてマスメディアがグルになって、特定の選択肢以外を選びにくいムードを総力挙げて作り出すというケースが。
よく「騙される方が悪い」などという言い方をする人がいるようです。
が、
何の考えもなしに騙される人よりも、騙す人や、騙しに加担する人、本来それを指摘すべき立場に居ながら何もしない人などの方がより悪質で、責任も重いのではないでしょうか。 騙された側ばかりを責め、騙した側(それに加担した側)の責任に言及しないとしたら、「自己責任」論というのは一体、何なのか?
ここまで言えば、読者の皆様はもうおわかりでしょう。
そう、結局……。
巷で喧伝されている「自己責任」論とやらの多くは、騙されて被害を受ける側にのみ責任を押し付け、より責任を問われるべき立場の人を不問に、あるいは軽減してしまうという、「責任転嫁と弱い者いじめの論理」に成り果ててしまっているのです。 先日記事で紹介した「派遣村叩き」などは、まさにその典型例でしょう。
だから、「自己責任」という言葉が私は嫌いなのです。
やたらと「自己責任」という言葉を唱える人たちに共感することができないのです。
さて長くなりましたが、最後に冒頭と
前回記事でも触れた「中川前財務相のローマ酒乱騒動、及びコンパニオン新聞記者騒動」との関連に戻ります。
「国民の自己責任」という側面も確かにあるかもしれません。
しかしながら、中川氏ら政治家や読売新聞社などマスコミの責任は、より重大であり、より厳しく追求されるべきだと、私は思います。
どんな形であれ、本来国民の信託を受ける立場でありながら、税金を勝手に食い物にしたあげくに、世界中に日本の恥を晒すような大失態をしでかしてしまったことには違いないのですから。
さらに、本来国民大衆に判断材料たる情報を提供する立場の人(マスコミ人)も一緒だったということも、国民(消費者)の支持・信託に対する裏切り行為でしかないのですから。
というわけで、「月並みな、ステレオタイプな批判だ」という批判を受けても(笑)、今後もこの問題にくらいついていきたいと思います。
さて、他にもいろいろ言いたいことはありますが……今はここまで書くのがやっとなので、今回はここまでとします。
次に更新できるのは、いつかな?(苦笑)
*参考過去記事
現代に遺る魔法呪文(2):ソレハ・ジコセキニン・ダ
http://komichin.blog80.fc2.com/blog-entry-34.html
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