本日は仕事は遅番なので、平日昼間の今頃にレスです。
遅くなりましたが、ワイナリーさんへのレスをします。
まず最初に大まかな結論を申し上げます。
失礼等があればお詫び申し上げます。
また、今後は表現等にも、もっと配慮していきたいと思います。
ただ……。ワイナリーさんがそう仰るのは(特に心情的に)理解はできるのですが、その一方で「もう少し、自分の属する組織や共同体を相対化して見ても……というか、突き放して見るのもいいのではないか?」という気も、正直するのです。
それと、「まともな学会員は公明党支持者であっても良心的です」と仰りたいお気持ちも、特に心情的には理解できなくもないですが、「そういった考え方にも、実はちょっと注意した方がいいのではないか?」とも私は考えるわけなのです。
>前にも私は言いましたよね?何故普段は慎重な人たちが、創価学会の事になるとなぜこんな話に乗ってしまうのか・・・。
デマということなら、お詫びいたします。
また今後は、もっと確実性のあるネタでない限りは、もっと扱いを慎重にしたいと思います。あるいは、そのようなネタを扱う時には、できるだけ「推測ですが」とか「未確認情報ですが」などのことわりを入れたいと思います。
ただ、この点でひとつだけ弁解をさせてもらいますと……。
このような話を真に受けてしまうだけの理由もあるわけですよ。こちらからすれば、ね。
例えば、先の沖縄知事選挙において、選挙の時期に特定の地域に不自然な人口の変化が見られたりして、それに「創価学会が絡んでいるのではないか」という話が持ち上がりました。
そういった話を、私の信頼できる複数のブロガーさんたち(←私からすれば「この人たちなら何の根拠もないのにいい加減な話はしないだろう」と思える人たち)が、していたのです。
もっとも、「それこそデマだ、与太話だ」と言われれば、それまでかもしれませんが。
「選挙前の住民票移動」などといった手口は、一部の宗教団体や圧力団体などが、自分たちの推す候補者を当選に導くために使う手のひとつとして、よく知られています。
(そういった住民票移動して得たものを含めた)宗教団体の票というが、結構バカにはできないのです。特に、低投票率で組織票の持つ比重が増した場合や、複数の候補者がほとんどギリギリの接戦を展開していた場合などは、それが勝敗を分けてしまうことだってあるのです。
(創価学会関連ではありませんが)先の参議院選挙で、丸川珠代のようなロクでもない(そして、あまり当選の見込みがないと思われていた)候補者が、宗教団体の票で当選してしまうなどという実例も、現にあったのです。
そういうこともあるので、こちらとしては「住民票移転云々」の話などにも、警戒していきたいと思うのです。他人から観れば「過敏ではないか」と思われるかもしれませんが……。
>それともう一つ・・・今回、「●●学会」等といかにも胡散臭げな形容をされていますが、こういう表現をする事で、人を傷つけると言うか・・・もっとハッキリ言えば本来は仲良くなれるかもしれない人たちを敵にまわすかもしれないという事を考えて欲しいと思います。
表現に問題があるというのならば、今後はできるだけ改めようとも思います。
ただ、そういった遠まわしな(回りくどい)表現は、創価学会にのみ対して使っているわけではありません。
例えば、「統一協会」を「某カルト」、「日本共産党」を「某左翼政党」「某革新系政党」とか。「石原慎太郎・東京都知事」を「某知事」、「橋下徹・大阪府知事」を「某タレント弁護士」「某新任知事」とか。などなど。
要するに、こうした表現は私にしてみれば、「普段何気なしに使っている表現方法のひとつ」でしかなかったのです。
「こういう表現をする事で、人を傷つける」「本来は仲良くなれるかもしれない人たちを敵にまわすかもしれない」というのなら、創価学会に対してだけではなく、今後はあらゆる団体や個人に対して、そういった表現は使ってはいけない、ということになるのでしょうか?
「共産党支持者」や「石原・橋下に投票した人たち」の中にも、「本来は仲良くなれるかもしれない人たち」というのは、きっといるでしょうから。
ちなみに私は、今までに共産党支持者(と思われる人たち)とも、コメント・TBのやり取りや意見交換等をしたことがあります。その方々の中には、私とは意見の異なる方もおられました。また私自身、日本共産党に対して批判的な発言をしたこともあります。
しかし、その中には「某左翼政党」などという表現のことで、私を批判した方は一人もいませんでした、少なくとも私の覚えている限りでは。もしかしたら、内心不快に思った方もいるかもしれませんが、それを表に出した人はいませんでした。
結局、「そういった表現方法の問題というのは、個々人によって違ってくるのではないだろうか」という気が私にはするのですね。
ですから、「今後はできる限りそういった表現は控えるように努めよう」と思う一方で、「あまりそういった表現の問題で、批判されても……」などという困惑もあるという、正直複雑な気持ちでおります。
いかがでしょうか。
>子路さん経由で知った喜八さんという方の、「創価学会・公明党」という文章や、権力に迎合したマスコミ人を忘れるな!さん(?)の、「学会員の皆様へ」なんかも学会員の私から見ても、「アンチ学会の多い左翼・リベラル派の人にもやはりまっとうな方はいるんだな~」と思わされる文章でした。
すみません。
私は喜八さんやアッテンボローさんほど大人ではなかったので、しばしば相手に対して鈍感な、あるいは攻撃的な言い方になったりします。
ここは気をつけなければ、と思います。
ただ、ここでも弁明を。
ワイナリーさんが「まっとうな方」の一人としてあげておられる喜八さんについて。
確かに、喜八さんは私よりは大人で、創価学会の人たちなど、自分とは意見や立場と異なる人たちとの対話を忘れない人です。
しかし一方で、「この世には対話や相互理解だけではどうにもならないこともある」ということも良く知っておられて、いざという時の武力や暴力の必要性を否定はしてはおられません。
特に、「ネットウヨ」と呼ばれる、ネットで悪質行為をする人たち(注:「ウヨ」というより、「ネット屑」とか「悪質行為者」などと呼んだ方がいいと思いますが)に対しては、私と同じくらいか、それ以上に強硬主義者です。より正確に言えば「彼らのような悪質な奴らは、迷わず、情け容赦なく排除すべき」と考えておられます。
参考までに、以下は最近の記事ですが、喜八さんの暴力に対する考え方や人柄などがよく現れている文章です。
http://kihachin.net/klog/archives/2008/02/naguru.html
以下の過去記事も、「対話や理解だけではどうにもならないこともある」という喜八さんの考え方が現れています。
http://kihachin.net/klog/archives/2007/02/comment3.html
要するに、ここで何が言いたいかと申しますと……。
「対話・相互理解が基本」というのはあるのですが、その一方で「もしかしたらどうにもならないことがあるかも……」などという可能性も忘れてはいない。
いえ、そこまでいかなくても「批判すべきと思うところは、批判させてもらう。批判させてもらいたい」ということです。
もっとも、批判の手法等に問題がある場合もありますので、その辺は気をつけたいと思いますが。
そしてこのように考えているのは、おそらくkaetzchenと私だけでありません。喜八さんやアッテンボローさんのように、理解を示している人たちの中にも、そういった考えをどこかに持っておられることでしょう。
何故、そんなことがわかるのかというと、私には今までに、喜八さんやアッテンボローさんと共に、ネットで悪質行為をはたらく連中と対峙したことがあるからです。その時に、喜八さんやアッテンボローさんのそうした側面を見てますから……。
>まともな学会員は公明党支持者であっても良心的です(*^_^*)その事だけは強調せずにはいられないから書いているのです。
ええ。それは私もわかっておりますよ
少なくとも自分ではわかっているつもりです。
リアルでも私は、創価学会の関係者の方々と会ったことがありますし。
いや、むしろ……普通というか、平均的なノンポリの人たちよりも、「いい人」だということが多いと思いました。
ここで言う「いい人」というのは、その人の人柄や、「良心的である」という意味だけではありません。
公共心や他愛心、そして「他人や社会に貢献したい」という献身的な気持ちを持った人たちでもあります。
実際に、そういった創価学会員に会ったことも、何度かありました。
しかしながら……。
その人たちが属する組織や共同体のありようや、方向付けによっては、そういった美徳がマイナスに作用してしまうことだってあるのです。ここでは、それも指摘しておきたいのです。
「今の自民党政権と、“新自由主義”の名を借りた“対米売国”と“一億総負け組化”」が、公明党によって支えられている……というか、公明の支えなしには決してありえなかった。こういう厳然たる事実もあるのです。そして、その支持母体である創価学会を支えているのは「まともで良心的な人たち」でもある。
極端な言い方ですが、「まともで良心的な人たちもまた、自民党の“(勝ち組・エリート以外の)弱者踏みつけ・切り捨て”に手を貸してしまっている」というのも、また事実だと思うのです。
ですから、創価学会批判をする際に、こうした「まともで良心的な人たち」まで叩かざるをえない時もあるかもしれない。いや、自分では「まともで良心的な人たち」まで叩くつもりがなくても、組織・共同体全体を批判せざるをえない時に、そういった人たちも巻き添えにしてしまう。巻き添えにしてしまうかもしれない、とわかっていても、批判しなければならない時もあるかもしれない。
もちろん、その時には批判の手法や手段等には、十分注意しなければならない、としても。
「まともで良心的な人たち」の立場から、「理解してくれ」「配慮してくれ」と言うこと自体までは否定はしません。
ただ、それならそちら側も、「心苦しいものはあるけど、あなた方をも含めて批判し、叩かざるをえない時もある」「あなた方にとって、嫌なことを口にする時もあるかもしれない」という、こちらの立場と事情も理解していただけないか、と思うのですが。
いかがでしょうか?
長々となってしまいましたが、今回はここまでにします。
この問題については、大きな問題なので、また別の機会にでも考え、論じたいと思います。