嗚呼、負け犬の遠吠え日記
ある時は、しがない安月給サラリーマン。ある時は、怪しい政経オタク。そんなkomichi(子路)の言いたい放題を綴ったブログです。荒らしなど、ネットの悪質行為の問題にも取り組んでいます。

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報恩寺とつかずの鐘 @ 京都妖怪探訪(391)




 どうも、こんにちは。
 シリーズ前回で、特別編として「平将門の首塚」をとりあげましたが、いきなり京都へ戻ります。

 今回は報恩寺と、そこに伝わる「つかずの鐘」を紹介します。
 この寺には「つかずの鐘」と呼ばれる鐘が残されていて、それには以下のような話が伝わっています。
 江戸時代、寺の近くに織屋があって、十五才の丁稚(でっち)と十三才の織女(おへこ)が働いていました。この2人は何故か仲が悪く、いつもいがみ合って、喧嘩ばかりしていました。
 ある時、夕方に報恩寺でつかれる鐘の回数を巡って喧嘩になり、丁稚は「八つ」と、織女は「九つ」と言い張り合いました。そして間違った方が、正しかった方の言うことを何でもきくと約束しました。
 正解は、織女の言うとおり「九つ」。
 しかし悪知恵の働く丁稚は、密かに寺男に「今日だけは八つにしてくれ」と頼み込み、事情を知らない寺男は気軽に引き受けました。
 その日の夕方、鐘は八回鳴ったので、賭けは丁稚の勝ちとなりました。
 織女の方は悔しさのあまり、寺の鐘楼で首を吊って死にます。
 それ後、鐘を鳴らす度に「不吉なことが起こる」とか、「無念の表情をした織女の霊が現れる」とか言われるようになりました。
 それ以来、この鐘は「除夜の鐘」としてのみ、つまり大晦日に除夜の法要後に108回つかれるだけとなって、「つかずの鐘」と呼ばれるようになったそうです。

 今年もあともうわずか。
 あと少しで大晦日になりますので、本シリーズ今年最後の記事として、大晦日にのみつかれるこの鐘をとりあげようと思いました。
 またこの寺には、寺宝「鳴虎図」にまつわる伝説も残されています。



 まずはいつもの通り交通アクセスから。
 京都市上京区の「堀川上立売(ほりかわかみだちうり)」の交差点。





 最寄りの交通機関は、京都市営バスの「堀川上立売」停留所です。
 ここから上立売通りを少し東へ行きますと、報恩寺への道が見えてきます。






 この道を進んでいきますと、報恩寺の境内が見えてきます。





 この報恩寺、前身は定かではないそうですが、室町時代の頃までは一条高倉辺りにあった学問寺院だったそうですが、後柏原天皇の勅旨によって文亀3年(1501年)に浄土宗の寺院として再興され、天正年間に現在の地へと移ったそうです。
 

 境内の道にあった「下馬」と書かれた小さな石の標識。





 ここで馬を下りなければならない、という意味でしょう。
 天皇の命令で再興された寺院ですから、それなりの格式はあるということでしょうか。


 境内の一角には稲荷社も。
 日本では本来、こういう神仏習合の形が普通だったのですね。






 室町時代から伝わる貴重な地蔵菩薩像があるというお堂。






 やはり境内の一角にある「びんずる行者」を祀る小さな祠です。





 「びんずる行者」とは。
 「十六羅漢」というお釈迦様の弟子の一人ですが、どうしても飲酒をやめられなかったため(つまり仏教の「飲酒戒」を守れなかったため)、お堂の中に入れてもらえず、お堂の外で教えのために働いていたという、ある種の親しみを感じさせる人物です。
 よく浄土宗などの寺院で、お堂の外や本尊の前などに祀られていて、「具合が悪い身体の部位と、びんずる行者像の同じ部位を撫でると、その部位が治る」とも伝えられています。


(※なお私は、実家が浄土宗の門徒で、しかも母方の実家が浄土宗だからわかるのですが。浄土宗・浄土真宗系の来世的な教えを厳密に解釈すれば、よくある「無病息災」などのように、「神仏にすがって人生の苦難を避け、現世利益を求める」などということは、本来あり得ないはずなのですが。しかしこれも、実に日本的な「神仏習合」のあり方なのでしょうから、これ以上細かいことは言わないでおきましょう)


 この先が本堂か庫裏でしょうか。 





 ここの客殿には、黒田長政が死去したという部屋があって、長政とその父・黒田勘兵衛(如水)の位牌が安置されているなど、いろんなものがあるそうですが。
 『京都妖怪探訪』関連でいえば、ここには「鳴虎図」という寺宝にまつわる伝説が遺されています。
 「鳴虎図」とは、その名の通り虎を書いた絵図ですが、豊臣秀吉がこの図を聚楽第に持ち帰ったことがありました。しかしこの図の虎が、毎夜吠えて眠れなかったため、仕方なく寺に返したそうです。
 なんか豊臣秀吉に関するこの手の話って、京都各地にいくつも伝わっているような気がします。
 「秀吉が京都で他人の物を欲しがって、一度は権力によって自分の物にするが、持ち帰ってから不吉なことや困ったことが起こって、秀吉はまいってしまって、物を元の場所・持ち主に返す」
 この「鳴虎図」だけでなく、そんなパターンの話がいくつも遺されています。
 おそらくこういった話は、豊臣秀吉という絶対的権力者を持った支配者に対する、当時の民衆に対する反発心か、反骨心から生まれたのではないかな、と思います。


 そして境内の一角、墓地の中にその鐘楼はありました。





 鐘楼の中を見るには、あるいは中に入るには、一旦墓地の中を通らなければなりません。
 少し失礼します。






 鐘楼入り口の前には、水子地蔵の像が。





 貧しく、今ほど医学も発達していない昔、死亡率を上げていたのは老人と、水子を含めた乳幼児でしたね。
 そんな哀しい時代を思わせます。



 そしてこれが「つかずの鐘」でしょう。



 

 これが自殺した織女の霊に呪われたという「つかずの鐘」。
 現在でもこの話は信じられているのか、つかれることの無いよう封印されています。

 「西陣織(にしじんおり)」という有名な伝統工芸品もあるように、ここ西陣は昔から織屋の町でした。
 昔、過酷な労働に励んだという丁稚や織女にとっては、一日の仕事の終わりを告げるこの鐘が重要な存在だった、だからこんな言い伝えも遺されているとする説もあります。

 今年の除夜では、この鐘はどんな音を響かせるのでしょうか。






 それでは今回はここまで。
 また次回。





*報恩寺の周辺地図はこちら





*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm




*この記事はこちらからの転載です。




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