副題:市場原理主義を批判しない自称愛国者の中国叩きの虚しさ・無意味さよ(1) 胡錦濤・中国国家主席の来日もあって、いわゆる「右派」「保守派」と呼ばれる人たちの中国叩きが活発化しているようです。
チベット弾圧など中国政府の覇権主義的な姿勢や、毒餃子事件とその後の不誠実な対応などに見られるような「自己中」ともいえるような姿勢などは、確かに批判されるべきです。
しかしながら……。
特に「右派」「保守派」と見られた人たちの中国叩きを見ていると、一抹の虚しさというか、無力感・脱力感を私は禁じえないのです。
「そんな批判の仕方で、中国(というより、中国を牛耳っている北京の独裁者たち)や、それを支えている者たちに届くだろうか? 彼らに少しでも打撃を与えることができるのだろうか?
いや、それどころか逆に、彼らを利するだけの結果しか残さないのではないか?」
そんな疑念・疑問を抱いてしまうのです。 特に、「右派」「保守派」などと見られている人たちの中に、
「市場原理主義(=新自由主義)」やそれによって生み出される貧困に対する批判をなしに……それらを擁護・肯定したまま、中国叩きをしている人たちもいるようです。
しかし……本人たちは気付いているかどうかはわかりませんが、そのような中国叩きは、北京の独裁者たちに対しては、全く無意味です。
いや、それでは彼らの横暴に歯止めをかけることどころか、逆に彼らにさらなる力を与え、さらなる増長と横暴を許してしまうだけではないでしょうか。
そして、彼らの日本に対する影響力・支配力をも強めてしまうだけではないか。 そのように私は懸念を感じます。
それは何故か?
本シリーズの
第1回と
第2回でも主張しましたように、
「市場原理主義(=新自由主義)」と、それによる貧困(=「一億総負け組化」、いわゆる「格差社会化」)が進むほど、日本の経済構造が外部への依存度・従属度を強めてしまうからです。 そして実際に、そのようになりつつあるようです。
これには深刻な懸念を感じると共に、日本の経済的自立(自律)性を重視する立場からも、「市場原理主義(=新自由主義)」と、それによる貧困(=「一億総負け組化」、いわゆる「格差社会化」)に対する批判は必要不可欠であると考えます。
今回から何回かにわたって、そのことを主張していきます。
今回はまず、現在の中国(の体制)に対する私の立場や考え方、及び問題意識について大まかなところから述べようと思います。
(komichi)

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胡錦濤・中国国家主席が来日し、さらに今年夏に北京五輪を控えていることもあって、いわゆる「右派」「保守派」と呼ばれる人たちの中国叩きが活発化しているようです。
非常に深刻な中国国内の環境破壊と、懸念されるその悪影響。
過激な愛国主義と、それによる異常ともいえる排外主義運動。
チベットにおける武力弾圧事件と、その背景にある中央政府による理不尽なチベット支配。
天洋食品の毒餃子事件と、その後の中国側による(まるで日本側に責任を転嫁するかのような)不誠実な対応。
毒餃子事件だけではない、農薬漬け食物など、中国製製品の品質や安全性に疑問を持たざるをえないような事件の続発。
などなど……。
特に近年、中国及び中国政府に対して、疑問や反発を持たざるをえなくなるような出来事が頻発しています。
そのため、いわゆる「右派」「保守派」の人たちだけではなく、「非右派」「非保守派」の人たちの中にも、中国及び中国政府に対して、批判的な言説を唱える人たちが出てくるようになりました。
それもやむをえないことでしょう……というか、当然のことでしょう。
この私……昔は「親中派」「中国マンセー」な時期もあったこの私でさえも、特にここ最近の中国・中国政府のあまりに自己チューかつ覇権主義的なやり方に対しては、疑問や懸念を抱かざるをえません。
中国・中国に対しては、あまりに強烈な排外主義までは主張する気にはなれません。
しかし、無批判に迎合したり、あちらの要求や言い分を100%そのまま受け入れるのは、いろいろな意味で危険である。少なくとも、今よりはもっと距離をとった方がいいのではないか。そのように考えるに至りました。
ですから、今行われている中国批判のほとんどは、当然のこと、あるいはやむをえないことではないか、と考えています。あまりに極端な反中、排外主義の立場をとるつもりもないのですが。
しかしながら……。
これら一連の中国批判を見ていると、時々ふと、一種のむなさしさにとらわれてしまうことがあるのです。
特に「右派」「保守派」と見られた人たちの中国叩きを見ていると、一抹の虚しさというか、無力感・脱力感を、私は禁じえないのです。